フランス、マスク事情(2020.MAY.25)

気がつけば5月も最終週。
来週から6月に突入。
6月と言えば、もう、夏!!




日照時間もすっかり伸びて、夕方8時になっても、こんなに明るい。
25mai




比較までに、フランスでコロナ感染拡大防止のために外出制限措置が布かれて間もない、3月後半あたりの夕方8時は、こんな感じ。

真っ暗で、なにがなにやら。
夕方8時と言うより、夜8時、と言った方がしっくりくるかも。
この頃は、みんな、医療従事者に感謝を込めて、拍手していたんだよね…
フランスでよく耳にする、「Solidaliteソリダリテ連帯」っていうのを、初めて体感した。

のに、外出制限措置が解除された途端に、誰も拍手しなくなっちゃったらしい。
日本から戻ったばかりの週末の夜8時は、もう、拍手もフライパンを叩く音も聞こえなかった。
おいおい、医療従事者の闘いは、まだ続いてるんじゃないの?
と、今夜もひとり8時に小さくパチパチする自分。
家族も、もう一緒にやってくれないけど。
ぶーぶー。まぁ、いいんですけどね。
気持ちの問題。





閑話休題。
夕方8時じゃなくて夜8時だった頃、フランス政府は、
「(コロナ感染予防に)マスクは不要です!お医者さんで処方された人だけ、薬局で購入して着用してればいいんです!」
と豪語していた。





そうは言っても…
と、自分が無症状感染者かもしれないと思い、自主的に外出時はハンカチ簡易マスクをするようになったものの、通勤路でジョギング中のねぇちゃんからすれ違い様に、
「貴女が(フランスに)ウイルス持ち込んだの?」
なんてブラックジョークを吐かれたこともあった。




それがどうだろう。
あれから2ヶ月ちょいしか経ってないのに、この、超アバウト先進国フランスで、スーパーや郵便局など、人と接触する屋内でマスクを着用していない人は白い目で見られるようになり、公共交通機関ではマスク装着が義務付けられた。





知り合いと会っても、ビズ(頬への挨拶のキス)どころか、握手さえしない。
しないことが礼儀になった。





日本であれ、フランスであれ、これまでの自分の人生で、こんなに短いスパンで、こんなに社会の常識や価値観が一変してしまったことって、なかったよな…





まぁ、とにもかくにも、2020年5月25日付のフランスマスク事情





公共の場では、着用が推奨されています。
公共交通機関では、義務。だけど、罰則はなし。




我が家から見下ろせる校庭をチェックする限りでは、どうやら、小学校では子供達にマスク着用を義務付けてはいない模様。
朝、8時半。ソーシャルディスタンスを保たせながら、校庭で児童の点呼をしているらしい。
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でも、先生たち大人は、着用している様子。
(注: フランスでは、5月11日から、保育園から中学生まで、段階的に学校が再開しているけれど、我が家の二人は一番再開のタイミングが遅い組で、6月明けの再開予定。しかも、親が希望しなければ、登校させる義務はなし。)





中学生はどうやら校舎内では着用しなきゃいけないらしいけど、まだ具体的な学校開始の説明が発表されていないので、真相はわからず。





ダンナも私も、職場でのマスク着用が義務付けられました。
(ちなみに、ダンナも私も、週半分くらいまだテレワーク中)




にーが通院再開した(けど、「もうほぼ治ってるから大丈夫!」と、再開後初回の診療で治療終了)整骨院では、患者はマスク着用義務化。
先生は着けていませんでした。




と、まちまちなマスク事情。
マスク初心者🔰のフランス。
どうしたら良いものかと、ダッチロールを続けている感じ。




とりあえず我が家には、自主的に買ったもの作ったものが数枚と、頂き物の不織布マスクが大半で、こんなにマスクストックがあります。
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使い捨てちゃうのはあまりにも環境によくないだろうということで、3、4回は洗濯して再利用しているので、全然減っていかず。




にしても、これ…
4月あたりはまだハンカチマスクだって、へっちゃらだったけど、
日中の気温が20度以上になってくると、一日中着けてるの、結構、キツいですよね。




自分の吐く生暖かい息がマスク内に篭るのが苦しくて、気持ち悪くて、無意識にマスク取っちゃう自分がいます。
夏季にクーラーがない屋内で、一日中マスク着用して過ごすなんて、ぜーーーーーったい無理!!
もう、自分、絶対感染してない自信あるから、着用勘弁してっ!!
って言いたくなる。
ユニクロはきっとエアリズムマスク売り出すはず。




本格的な夏を迎える頃には果たして、マスク着用推奨令は、解かれているのだろうか…
まぁ、この2ヶ月の変わりようからすれば、芋洗い状態で海水浴を楽しむフランス人で溢れるビーチが7月後半あたりのニュースになってても、驚きはしないけれど…




余談になるけど、フランスのマスク着用義務マークがバラエティに富んでいて、興味深いので、いくつかご紹介。
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横顔もなかなか精悍…

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これが一番よく見かけるかな?

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横顔、ハゲバージョン

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カップル、いや、母と息子? 女性のが自己主張強そう。だけど、かわゆい。

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こちらは家族。でも、目鼻がないし、寄り添い方が、なんだか不安そう…

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最後。万人受けしそうなキャラ。




現実はどうあれ、やっぱり、不安そう、冷たそうなやつよりは、明るい感じのマークの方が、好感度高そう、かな?


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外出禁止令解除初めての週末

5月11日に外出禁止令が解け、外出許可証を持たずとも外に出ることができるようになって初めての週末。
おまけに、爽やかな五月晴れ。




2ヶ月の軟禁生活が強いられてきたフランス。
これで、外に出たくならない人がいたら、その人は、きっと、生粋のヒッキー(宇多田ヒカルではありません)。
Born to be Hikikomori.




我が家の2ヶ月ぶりの外出先は、家族で一番外に出ること、思いっきり走ることに飢えていた、長男のチョイス。
彼がBeforeコロナには、週に3日、ホームでの試合の時は週4日通っていた、ラグビーの練習場。





子供達をマスクの日常に慣れてもらうため、あえて、公共交通で移動してみました。





地下鉄入口には、休日だというのに、マスク着用していない乗客に、マスクを配る職員さんが二人立っていました。
ホームの床には、社会的距離の取り方案内が描かれて、カラフルに。
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「水色の線で乗客は降客を待ってね」
とか、日本人なら、
そんなん、色付きで説明されなくても、とっくにやっとるわ!
的な案内ですな。





公共の場でのマスク着用が義務付けられ、今やマスクをしていない人が異様に見えるようになってしまったフランスの日常。
初めて見る、ダンナと子供たちのマスク姿…
本当に異世界です。





目的地最寄り駅に到着し、地下から階段を上って地上にあがると、そこは自宅から半径1km以上離れた2ヶ月ぶりの娑婆!! 
たったの5駅だけど…
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おもむろにマスクを外して駆け出す子供達の後ろ姿は、小躍りしてるようにも見えました。
そりゃ、そうだよね。
外出制限中も、週半分は出勤し、なんてったって、飛行機に乗って日本に里帰りして、病院やら葬儀やら役所やら、コロナだろうがなかろうが同じであろう環境に身を置いていた私とは、感慨も違うはず。





練習場入口まで続く道両脇にあるオープン駐車場は、午前中だったのにもうマイカーでいっぱい。
でも、みんなお目当ては、練習場横にある、市民公園だったみたい。
練習場には、大小6つのグラウンドと、テニスコートがあるのだけれど、コートはプレーする家族連れで埋まっていたものの、グラウンドは、いずれも、鍵は空いているのに、誰もおらず。
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「(子供から大人までのラグビー 愛好家仲間で)誰かひとりぐらい、遊びに来ていてもいいのにな」
と、ダンナ。
全くそうだよねぇ😢
みんな山とか川とか、自然がたくさんあるところに行っちゃったのかもね。





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まぁ、蜜になることなく、伸び伸びと遊んだり、走ったり、芝生の上でピクニックしたり、風に吹かれながら寝転んだりすることができました。





練習場の片隅には、コクリコ(雛罌粟)も咲いていました。
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義母の暮らす田舎の家の周りの麦畑脇にも、今頃コクリコが沢山咲いているのだろうな…
外出制限が解けても、100km以上のプライベートの外出は禁止されているので、まだ義母の家には遊びに行けません。





コクリコと言えば、思い出すのは、与謝野晶子のこの歌。

ああ皐月 仏蘭西の野は火の色す
    君も雛罌粟(コクリコ) われも雛罌粟






5月の緑の麦畑に、補色である朱色のコクリコが浮かぶ温かい景色は、モネやゴッホ等、多くの画家が描いているけれど、夫の与謝野鉄幹に合流するため、シベリア鉄道でフランスに渡った晶子は、鉄幹に会ったのち、二人でフランスやイギリスを周遊したそう。きっと車窓から流れていくフランスの目に焼きつくような緋色の雛罌粟の咲く丘を、鉄幹と二人で眺めながら、再会の喜びを歌ったのではないでしょうか。
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Claude Monet - Les Coquelicots à Argenteuil




与謝野晶子と言えば、もう一つ別の、タイムリーなエピソードが。
スペイン風邪(とは言え、スペインが起源ではないけれど)の流行時、子供一人が学校で感染してしまったことにより、家族が皆感染してしまったという与謝野家。
「感冒の床から」と題し、ある新聞に寄稿したそうですが、以下はその文からの抜粋です。




 
…傳染性の急劇な風邪の害は米騒動の一時的局部的の害とは異(ちが)ひ、直(たゞ)ちに大多数の人間の健康と勞働力とを奪ふものです。

政府はなぜ逸(いち)早くこの危險を防止する爲に、大呉服店、學校、與行物、大工場、大展覧會等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかつたのでせうか。
 
そのくせ警視廳(庁)の衛生係は新聞を介して、成るべく此際多人數の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、學校醫(医)もまた同様の事を子供達に注意して居るのです。

 
社會的施設に統一と徹底との缼(か)けて居る爲に、國民はどんなに多くの避らるべき、禍(わざはひ)を避けずに居るか知れません。…

 (与謝野晶子「感冒の床から」『横濱貿易新聞』1918年11月10日)
 (与謝野晶子『与謝野晶子評論著作集 第十八巻』龍溪書舎 、2002年)






警察は「密な場所に集まるんじゃないぞ」と市民に警告するくせに、政府は、感染症対策を市民一人ひとりの良識ある行動に頼るのみで、デパートや学校、劇場、会社等の休業措置を直ちに設ける等の国策を、何故さっさと取らなかったのか、と批判しているわけです。





100年前も今も、政府の飴鞭なしに、市民レベルの行動で、厄疫を乗り越えていく模範を世界に示すことができる日本を、心から誇りに思います。
日本人は本当にすごい。





一方で、ちょうど100年前の日本は、政治家でも、専門家でもない、女性の歌詠人が、こういった政治批判をすることが、許された時代だったのですね。
まぁ、大正デモクラシーだし、きみ死にたもうこのなかれ、と、「弟よ、お国のためになんか、死ぬんじゃないよ」と忠君愛国をいち早く危ういものとして本音で批判していた晶子さんですから、特別枠だったのかな。





にしても、今ならば、「政治的な発言をすると、仕事を干されるよ」と、マネージャーから諭されたり、「歌うたいに政治の何がわかる」と右寄りの市民からバッシングを受けるところじゃないかな。





スペイン風邪が流行った時は、第一次世界大戦中の戦争景気も手伝ってか、不況にはならなかったようだけど、その10年後に訪れる世界的大恐慌と共に、日本にも相次ぐ企業倒産やデフレや飢饉など、本格的な不況が訪れて、
不況脱却には、力づくで中国や韓国を始めとするアジアでの権益取り戻して、強い日本を再生するしかないんじゃね?
と国家主義が台頭して、個人よりも国家に重きを置いて、国策である「強い日本再生計画」を疑問視する声や風潮を「危険」として弾圧するようになって、太平洋戦争に突入して、ぼろ負けしちゃった、っていう歴史も、この100年にはあります。
弾圧されて投獄されたり、戦争の犠牲になっていったのは、国家主義政策を推し進めていたお偉いおじさん方じゃなくて、私のお爺さんだったり、あなたの先祖だったり、一般ピーポーなんですけどね。




繰り返して欲しくない歴史もあります。


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どちらかと言えば、自分は父親っ子だったと思う。




と言うか、私たち姉妹が大学に入るぐらいまでは父は忙しく、留守がちで、子供の躾や教育は完全に母任せだったから、ヒール役は全部母が引き受けていたわけで、父がいいとこ取りしていたような格好になっていたからかもしれない。




出版社に勤めていた父は、平日はいつも私達が寝静まってから帰宅し、朝は私達が学校に行く前に起きてくることはめったになかった。週末は毎週のように日帰りゴルフに出ていたし、父と一緒に時間を過ごすのは、休日の夜と、夏休みの家族旅行ぐらいだった気がする。




それでも、当時、同級生の女の子の誰もが読んでいたような人気漫画月刊誌の編集に携わっていた父が、毎月発売日よりちょっと前に持ち帰ってくる雑誌や付録を楽しみにしていたし、その雑誌の中に、父の名前が小さく登場していたことを、密かに誇らしく思っていた。

元旦には人気漫画のキャラクターのオリジナル原画入の年賀状が何枚も届き、人気漫画家が自宅に遊びに来ることもあった。

自然、私たち姉妹は漫画のキャラクターを真似たお絵かきが共通の趣味となっていったわけだが、小学校の時に書かされた「将来の夢」という作文で、はっきりと「マンガ家になること」と書いたのは、私だけだった。




私のその幼い夢は、大学1年ぐらいまで続くことになる。




結構、真剣に、漫画を描いていた。
投稿は高校に入ってから始めたが、父や父の知り合いに「編集者の娘の漫画」と色眼鏡で見られるのが嫌で、父の手掛けていた雑誌のライバル誌に敢えて投稿をしていた。
3ヶ月に1本程度の投稿をして、数本目からは、小さな賞も貰えるようになった。
ずっと絵を描いていたいからと、美大に進もうと思い始めた頃、漫画のペン入れをしている私の部屋に父が入ってきて、床に散らばっている私の原稿を一枚拾い上げ一瞥して、こう言った。




「お前には才能がない」




絵が動いてない。まずそんなことを言われたと思う。
そして、万一デビューできたとしても、漫画家という世界は水物で、一度もヒット作が描けずに消えていく人がほとんど、昼夜も逆転で、普通の生活を送る人たちとの交流もなくなるだろう、お前にそれが耐えられるのかと。
ましてや、漫画を描いていたいから美大に行くなど、そんな甘ったるい考えは捨てなさい。とりあえず、潰しのきく4年制に進みなさい。その上で、それでも諦めきれないなら大学に行きながら描くのを続けてみるのも良いだろう、と。



何くそ、と思ったけれど、結局、専門の勉強すらしたことがなかった美大進学は早々に諦め、受験勉強の時間より漫画を描く時間が欲しかったので、残り物の高校の推薦枠の中から中堅の私大の仏文科を拾った。




何故だか、当時の自分は、高校生のうちに、デビューすることを目標にしていて、大学に入ってなお、デビューを目指して漫画を描き続けている自分が、格好が悪いような気がしていた。
やがて、ペンを置いた。
同時期にプロを目指して投稿していた漫画家には、セーラムーンの武内直子や、逃げ恥の海野つなみなんかがいる。
二人とも、某誌の「もう一歩賞」的な入賞者の、常連だった。
継続こそが最大の才能と知るのは、ずいぶん後になってからだ。




幼い長男を連れて、実家に帰省していたある時、父が、何かの拍子に言った。
「自分の好きなことで食ってける奴が、最強だよな」




私には、漫画家になるの、猛反対してたよね!!
と、その時は父に突っ込みたくなったけれど、今から思えば、父はひょっとしたら、本当は私に、描くことを続けて欲しかったのかもしれない。
そして、自分の子供が将来の夢を語る年になり、父が高校時代の自分にあぁ言った気持ちが、わかるようにもなった。




父自身、学生時代に、児童文学研究に傾倒し、漫画の原作書きのバイトから、編集の仕事に携わっていったらしい。
30代で建てた家には書斎を設けたぐらいだから、いずれまた書くつもりは、あったに違いない。
しかし、編集者としての経験を積むに連れ、自身の文章の限界を知ってしまったのかもしれない。
私が、漫画やイラストを描くのをやめてから、長い間、時々描こうと発起するも、納得するものが描けないのが嫌で、絵を完成させることができなかったように。




父にまた文を書いて欲しくて、定年祝いにモンブランの万年筆をプレゼントしたが、結局その万年筆も、どこに放ってしまったのやら。
父は私達娘に、遺言すら書き残さなかった。




そんな父への嫌がらせ的に、しばらくイラストを描き続けようと思う。
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大好きな人のこと

とりあえず、書きたいから、とにかく書こう、ということで。
以下、「ですますだである」調もめちゃくちゃで、支離滅裂で、独りよがりな散文になりますが、お暇があったら、どうぞおつきあいください。



自分の気持ちを整理するために、何かを描いたり書いたりすることは、今迄もあったけれど、こんなに何からどうやってかいたらいいのかわからないままかき始めるのは、初めてかも…



私が書くのと描くのが好きなのは、間違いなく父の影響なわけで。
漫画2 



そんな父が亡くなりました。
大好きだった父。
大好きなくせに、全然甘えることができないまま、逝ってしまいました…
197110




妹から父が危篤という連絡を受けたのが、フランス時間の5月3日の日曜日、昼過ぎ。
スマホとLINEというツールがある時代で良かった。
でなければ、妹はもちろん、毎日電話をかけていた母さえ、フランスの私の電話番号を控えていなかったはず。



時は、コロナ期。
フランス発日本行きの便は、月曜日と木曜日の週2便。
しかもパリ発のみ。
パリへ移動するTGVは日に2本。空港行きTGVは運休。
今日パリ入りしなければ、明日月曜日の出発便に間に合わない。
そして、今日唯一にして最後のTGVの出発まで1時間半しかない。
無事明日の日本行きに乗れたとしても、到着した空港では、PCR検査を受け、原則その結果を空港の係留地にて待たなければならない。
もっと厳格に言えば、結果が陰性であっても、公共交通に乗っての移動はできず、2週間の自主隔離をしていなくてはならず、病床の父を訪ねるなどもってのほかだ。


妹のスマホのLINEビデオに映る父に呼びかけると、確かに私の声に反応していた。


迷っている時間はなかった。
と言うか、とっくに頭ではなく感情が結論を出していた。
1時間半後に出発のTGVと、明日のパリ発日本行きの便と、今夜のパリ宿泊先を同時予約しなくてはならない。
「今帰らなければ一生後悔するから」
と、ひとりで緊急帰国すると、夫を説得し、子供たちに説明し、上司に伝え、旅の予約を確定し、ボストンバッグにパスポートと下着と服を数枚つっこんだ。
公な機関に勤める人間としては、完全にアウトだ。


フランスに生活の拠点を置いた頃、自分は親の死目には会えないだろうと、茫漠と思った。
冷静にそんな自分を客観視するのだろうと、うそぶいていたくせに、この取り乱しようはなんだろう。


妹から連絡を受けた24時間後。
がらがらのエールフランス日本行きは、ドイツ上空あたりを通過していた。
横10席のシートに私ともうひとり。前のシートに人影は見えない。
低く見積もっても50本以上のジェット機に乗っているが、こんなに搭乗客がいない長距離便は初めてのことだった。
これでは燃料費すら元が取れず、航空会社は大赤字だと、心配になった。
空席を利用して横になるものの、まんじりともしなかった。


空港に到着後、検疫官に先導され、PCR検査を受けた。
やたら長い綿棒のような棒が、頭の裏側あたりを内側からつつく感触。
鼻腔のトンネルはこんなに長いものかと感心した。痛みはさほどなかった。
検査後、検査官に事情を説明すると、結果を待たずに空港を出ることを許される。
ただし、私が公共交通を使って帰らないように、迎えに来てくれた友人と合流できるまで、検査官の女性が同行していたけれど。
3月中旬の国境封鎖直前にヨーロッパや北米から緊急帰国し、公共交通で自宅へ帰った人たちの一部が、日本に感染を拡げてしまったわけだから、それは適切な対応だとは思う。


5日朝10時半過ぎ、父の病室に到着。
その6時間後、姉が北米から到着。
世界中の飛行機がほとんど空港に待機しているこの時期に、海外に暮らす娘たちが、危篤の連絡を受けて48時間以内に駆けつけることができたことは、奇跡だったと思う。
もう父は、話をすることはできなかったけれど、私たちが来るのを待っていてくれた。
それから、ほぼ1日、最期の時間を家族で過ごした後、6日夕方7時過ぎに、父は逝ってしまった。
つい今まで息が荒く、苦しそうに眉間に皺を寄せていたのに、とても柔和な顔だった。
「痛いだけが人生だ」
ここ数年は、そう自嘲するよう呟いていた父が、ようやく痛みから解放された瞬間だった。


実は母は、この1か月間、コロナの院内感染防止のため、父に面会することは叶わず、相部屋だからと電話をすることもできずにいた。
それが父の死期を早めたということは、否定できないと思う。

コロナじゃなかったら---そう思わずにはいられない。

それでも。
父が危篤状態となった時点で、私たち家族を呼び寄せ、特例的に貴賓室のような個室に父を移動させ、家族全員で父と過ごせる時間を設けてくれた病院と、体中が癌に侵された父の痛みを和らげる為に夜中も2時間おきに父の体勢を変えたり、献身的なケアを続けてくれた看護師さんたちには、心から感謝したい。

それに、私の勝手な緊急帰国の決断を認めて、送り出してくれたフランスの家族と、上司。

そして、急なお願いだったのにも関わらず、二つ返事で、空港まで迎えに来て、マッハで父の元に連れて行ってくれ、通夜にも駆けつけてくれた友人にも。



ちなみに、亡くなる日の朝の父のPCR検査の結果は陰性。
父が亡くなった翌日受け取った私のPCR検査結果も陰性。
その半日後に受け取った姉のPCR検査結果も陰性。



結果オーライだけど、もし、これがひとつでも陽性だったら、また違う結末になっていたかもしれないと思うと、恐ろしくなる。



父について書きたかったのに、ほとんど書かないまま、こんなに長文になってしまった。

父については、また後日。
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Author:minette2
にーとまーの5歳違いの日仏男児との日常を綴っています。

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